マンガ

脳の問題

ひたすら下書きしているのに「なんか形が決まらない。」「どこがおかしいのかわからないけど、(デッサンが)狂ってるのだけはわかる。」ということがあります。以下は私の私見ですが、そういうときは脳が疲れているんです。

おそらく空間認識を司る脳かなんかがくたくたに疲労しているんです。
そういう時は寝て脳を休ませるのが一番です。が、時間の都合でそんなことできない!というときは、私はとりあえずトーン作業などの単純作業をするようにしています。
そして次の日、起き抜けに昨夜まったく形が決まらなかった絵を見るとあら不思議!おかしくなってる場所が、線がわかります。
もちろん長年の手癖で脳が形を取れない状態でも絵は描けます。
でも、そのような状態で描いた絵は大抵朝見直したときに
「なんじゃこりゃあ!?」ということになり、描き直すはめになります。
なので作画がドツボにはまったときは、いったん絵から離れて休んだ方が私はいいようです。
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らしさ

漫画を描くと、同じキャラクターを何十回、何百回と繰り返し描きます。連載の場合は描いているうちになんとなく造形が安定してくるものなのですが、読み切りの場合はそうもいきません。「あれ、なんかちょっと違うな〜」と思っているうちに作画作業が終わってしまいます。

そういうときは「そのキャラクターらしさ」が出ているか否か、のみを意識して描きます。多少の顔のばらつきには目をつぶり、とにかく描いていると手と目が慣れてキャラクターが安定してきます。20150527_63748

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本日の一枚

新作の三国志ものの原稿を執筆中。

久しぶりに周瑜が登場します。
…三国一のイケメンなんて
どう絵で20150514_61025 表現したものか、試行錯誤の毎日ですが
楽しいです。

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新作

気がついたら2ヶ月もブログを

書いてませんでした。
まだ正式発表ではないのですが新作は
また三国志ものです。
ネームは全部出来ていて、
作画を始めたばかりです。
掲載号が決まったら告知したいと思います。20150510_61945

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発売日

三国志異聞『鳳凰の恋』の発売日は3月16日です。

Amazonで予約、始まってます。
曹操の息子、曹丕と
略奪されて嫁いだシン氏の
純愛の物語です。
三国志好きな方も
そうでない方も
お楽しみいただけるように
描きました。
ぜひ、お手に取って
お確かめくださいませheart
Img_0403

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ネーム中につき

理論の左脳が働いております。

娘が入塾するとき
塾長先生がこんなお話をしてくれました。
「知ってる、だけではテストで点は取れない。
わかる、になって初めて点が取れる。」と。
ふんふんとお話を拝聴しつつ、私は
「ああ、これはマンガにも当てはまるな。」と思いました。
知らない事は、描けない。
でも、知ってるだけでは
描いても伝わらない。
わかる、ということは
共感する事。共有すること。
自分が傍観者ではなく
事物の中心にいること。
五感で味わうこと。
例えば、胴上げ。
私は実生活で胴上げされた事は一度も
ないので想像の域を超えないのですが。
スポーツで優勝して胴上げされている人の
見る景色ってのはどんな喜びの色をしているんでしょうね。
わかったら,墨一色でも表現してみたいものです。

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自分の呼吸

ネームを描いていて、ふと。
小説でもツイッターでもそうですが
人間の書く文章にはリズムというか
独特の「呼吸」、というものがあります。
で、更にマンガにはコマというものがあって
絵と台詞とコマ割りの相乗効果によってストーリーを
運んで行くわけです。
この「呼吸」、っていうのが
一番作家の個性が反映されているように
私は思います。
すごく好きな作品があって、
「私もああいう息づかいで描きたい!」と思っても
それは不可能。
どんなに憧れて真似て
できなくて悔しくて打ちひしがれても。
猫に犬の鳴き声はだせない。
自分の呼吸でやるしかないです。
それしか、できない。けどそれでいい、
と思うことにしています。

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マンガ部門

大賞は近藤ようこ先生/原作:津原泰水先生の「五色の舟」。

私は、まずこの作品が
出版できたことに驚きを禁じ得ないです。
関わった人々がどれほどの覚悟をもって
この話を作品に仕上げ印刷し
流通させるに至ったのか。
原作者、漫画家、編集者、出版社
どこかひとつの覚悟が欠けても
こういう奇書は世に出せなかったことでしょう。
このお話に関しては
ドラマでも映画でも小説でも
作品世界を完全に表現するのは不可能だと思います。
実写なんかにしようものなら
おそらく直視するのも辛くなってしまう。
マンガだったから表現できた話、なのではないかと
私は受け取りました。
あの、いずれもどこか欠けた人々の存在する世界は
マンガ絵の曖昧な
あらわに説明しすぎない描写だから均衡を保っていられるのです。
何もかもが危うい、ギリギリのところで
存在している不思議で魅力的な作品です。

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国立新美術館

文化庁メディア芸術祭、というのに行ってきました。

会場は六本木にある「国立新美術館」。
ポンギなんて主婦には最も遠い街です。
東京に住んでたって滅多に行きません。
学生時代に「展覧会を見ない手は無い。」
と先生方に言われましたが。仕事にかまけて
最近はどうしても見たいアジア美術関係を選んで
ちらっと見るくらいでした。
でもやっぱり,最先端には触れておかないと錆びる。
ほんとにそう感じました。
スマホさえ使えない私には
最近の展示はデジタル中心だったりして
アナログ代表としては「触れてはイカンもの」
「なにやらオソロシげなもの」となんとなく
敬遠しておったのですが。
実際の展示はたのしかったです。
アートが体験型とか双方向になってきている
せいかも、と思います。
人間が触れて初めて成立する作品。
作り手と受け手をつなぐ媒体としてのアート。
そこにはやっぱり見えざる力(意思とか思いとかいう観念)
ありきなのだということを実感させていただきました。Kc3o0041

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進撃の

中国の春秋時代の戦の作法に

「進撃の合図は太鼓を打ち、退却の合図は
陣鐘を鳴らす。」ってのがあるんです。
だから、三国迷ならすぐわかるあの
「ジャーンジャーン」の音は退却の合図です。
で、中国電子台制作の「三国志」のなかで
出陣した関羽の後ろでノリノリで
ドンドコ太鼓を打っていた張飛を見たような記憶が
あるので。
三国時代もおそらくは同じだったろうと思う訳です。
以上,明日使える?ムダ知識でした。20150129_23421

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