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2015年2月

風立ちぬ

宮崎駿監督の「風立ちぬ」。

公開時に映画館で2回見て、ブルーレイも発売と同時に

買って何度か見ました。

しかし、見るたびに感想が少しずつ変わって行きます。

それはこの一本の映画に監督の人生の総括というか、

いろんな物が内包されているから。

はじめは「愛」について心揺さぶられました。
同じ女性としてはね。菜穂子さんの愛への挑み方は
理想的ですから。自分のことは二の次、三の次にしても
好きな人のそばにいたい、支えたいっていうね。
しかし,この映画は何度見ても
明るくも楽しくも無いのです。というか悲壮なんです。
胸にざっくり刺さるんです。
主人公は若くて才能もやる気もあって
周囲の人にも恵まれて、大好きな「うつくしいもの」を
作っている、のにも関わらずです。
それは「自分の作ったうつくしい飛行機が戦争の道具として使われた挙げ句、
多くの人の命を奪った」という悲劇があったからではありません。
まあ、それも一因ではあるのですけれども。
それより何より胸をえぐるのは
「夢を追い求める人間の業」があからさまに
描かれているから、です。
本気で夢を追う、ということは
自我の発動なんです。
そこに他人は介在しないんです。
みんな自分の夢のことで頭が一杯なんです。
「人非人って何?それ、おいしいの?」ってなもんです。
…恋人を、家族を、周囲の人間すべてを
そして自分自身をもボロボロに傷つけても
やりたいんです、やらないと死ねないんです。
ここ重要です。
「やれば,生きられる。」じゃなくって。
「やらずには,死ねない。」んです。
ある意味、一般生活は送れていますが狂人です。
別に二郎さんに限らず
そういう人はあちこちにいます。
この作品はクリエイターの先駆者宮崎監督からの
応援歌…では決してない。
むしろ「覚悟決めろよ、てめえたち。」っていう
ムチだよね、と私は受け取っています。
そういうわけでこの作品は私の中で
お気に入りなのに気軽には見れない、殿堂入り映画になりました。

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ネーム中につき

理論の左脳が働いております。

娘が入塾するとき
塾長先生がこんなお話をしてくれました。
「知ってる、だけではテストで点は取れない。
わかる、になって初めて点が取れる。」と。
ふんふんとお話を拝聴しつつ、私は
「ああ、これはマンガにも当てはまるな。」と思いました。
知らない事は、描けない。
でも、知ってるだけでは
描いても伝わらない。
わかる、ということは
共感する事。共有すること。
自分が傍観者ではなく
事物の中心にいること。
五感で味わうこと。
例えば、胴上げ。
私は実生活で胴上げされた事は一度も
ないので想像の域を超えないのですが。
スポーツで優勝して胴上げされている人の
見る景色ってのはどんな喜びの色をしているんでしょうね。
わかったら,墨一色でも表現してみたいものです。

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自分の呼吸

ネームを描いていて、ふと。
小説でもツイッターでもそうですが
人間の書く文章にはリズムというか
独特の「呼吸」、というものがあります。
で、更にマンガにはコマというものがあって
絵と台詞とコマ割りの相乗効果によってストーリーを
運んで行くわけです。
この「呼吸」、っていうのが
一番作家の個性が反映されているように
私は思います。
すごく好きな作品があって、
「私もああいう息づかいで描きたい!」と思っても
それは不可能。
どんなに憧れて真似て
できなくて悔しくて打ちひしがれても。
猫に犬の鳴き声はだせない。
自分の呼吸でやるしかないです。
それしか、できない。けどそれでいい、
と思うことにしています。

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マンガ部門

大賞は近藤ようこ先生/原作:津原泰水先生の「五色の舟」。

私は、まずこの作品が
出版できたことに驚きを禁じ得ないです。
関わった人々がどれほどの覚悟をもって
この話を作品に仕上げ印刷し
流通させるに至ったのか。
原作者、漫画家、編集者、出版社
どこかひとつの覚悟が欠けても
こういう奇書は世に出せなかったことでしょう。
このお話に関しては
ドラマでも映画でも小説でも
作品世界を完全に表現するのは不可能だと思います。
実写なんかにしようものなら
おそらく直視するのも辛くなってしまう。
マンガだったから表現できた話、なのではないかと
私は受け取りました。
あの、いずれもどこか欠けた人々の存在する世界は
マンガ絵の曖昧な
あらわに説明しすぎない描写だから均衡を保っていられるのです。
何もかもが危うい、ギリギリのところで
存在している不思議で魅力的な作品です。

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国立新美術館

文化庁メディア芸術祭、というのに行ってきました。

会場は六本木にある「国立新美術館」。
ポンギなんて主婦には最も遠い街です。
東京に住んでたって滅多に行きません。
学生時代に「展覧会を見ない手は無い。」
と先生方に言われましたが。仕事にかまけて
最近はどうしても見たいアジア美術関係を選んで
ちらっと見るくらいでした。
でもやっぱり,最先端には触れておかないと錆びる。
ほんとにそう感じました。
スマホさえ使えない私には
最近の展示はデジタル中心だったりして
アナログ代表としては「触れてはイカンもの」
「なにやらオソロシげなもの」となんとなく
敬遠しておったのですが。
実際の展示はたのしかったです。
アートが体験型とか双方向になってきている
せいかも、と思います。
人間が触れて初めて成立する作品。
作り手と受け手をつなぐ媒体としてのアート。
そこにはやっぱり見えざる力(意思とか思いとかいう観念)
ありきなのだということを実感させていただきました。Kc3o0041

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